2005.12./「わたしたちの発する単語は文章にならない」






 兎木吊垓輔に恐怖を憶える必要なんてないのに、
 いつだって、いつでも、ずっと、こわくてしょうがない、
 なぜなら人間は理解できないものを恐れるからだ。















「………ほんと、目を合わせるぐらいしてくれてもいいんじゃないかな、志人くん」
 ふざけんじゃねぇ黙れ、という本音を封じ込める事に成功する。
 その成功を無駄にしないために、志人は黙々とペンを進めた。
「ここに来るのはきみぐらいなんだよ?つまり俺が会話というものをできるのはきみだけで、きみは俺の唯一だ。そんなに離れないでもいいと俺は考える」
 無視だ、無視。志人は敬愛する博士に頼まれた報告書を記し続ける。よくわからないが(いや、理由はわかっている。おそらく志人が博士の助手だからだろう)、志人はこの──兎木吊垓輔という男を任されていた。朝の定期連絡を受けるのはいつも志人だし、何日かに一度は直接彼を見に来て、その様子を報告書に記し博士に提出しなければならない。できれば毎日がいいと博士は言ったが、それはさすがに無理だとわかってくれているらしく、五日に一度はと言われた。忠実な志人はそうせざるを得ない。
「そんなわけで少しでいいから話をしよう?五分間だけでもいい。きみとは出会って間もないけど、俺はそんなに悪い事をしたかな?……まだ何もしていないと思うけれど」
 まだって何だまだって。
 つっこみたいのを心から堪える。報告書を事務的なものにするのもたいへんだ。そんな事を思いながら、なるべく彼を見ないようにしながらも様子をうかがう。きちんとした報告書を作成しなければならない──そのためには彼に質問もしなければならないのだけれど、ずっとひとりでしゃべっている男にどうして質問できようか。いや、できない。
「嫌うならばせめて俺の事を知ってからにしてほしいな。きみは欠片も知らないだろう?爪の欠片ひとつ、そんな微細なものでもいいからこの俺を理解したうえでその行為をしているというのなら、俺はまだ受け入れられるよ。だがきみは理解していない。断言するよ、きみは理解していない──俺の事を何ひとつ。そのうえで目も合わさず近寄る事もせず、きみは、ひどいね」
 最後の言葉は冗談みたいに真剣に聞こえた。
 だから、だろうか。
 志人は顔を上げてしまった。
 目が合ってしまった。
 彼が歩み寄ってくるのを見てしまった。











「────きみはひどい」











 意味もなく答が聞き返されるのを聞く。
「知っているだろう、きみなら」
 答えなかったのではなく、今度は声が、出なかった。出す事ができなかった。
 恐怖の対象がすぐ目前にあって、平常でいられる人間はいないだろう。
 すくなくとも志人は、そうだ。
「きみなら──博士の助手であり頭脳明晰であるきみなら──わかるだろう」
 わからねぇ。
 わかるはずがねぇ。
 わかりたくもねぇ───!
 ほとんど反射的に、志人はすぐ後ろにあるドアノブを後ろ手につかんでいた。こんな事を想定していたわけではないけれど──そのはずだ──いつでもここを出れるように、ドアのすぐ近くに立っていたのだ。
 けれどそれよりもはやく、彼の、兎木吊垓輔の手が、鍵をしめていた。ノブをまわしたが開かない。舌打ちして顔を上げた先に、彼がいた。
「俺と、目を合わせないくらいで」
 しずかに彼は言う。
「距離を離したくらいで」
 動く事もできずに志人は息さえ止めていた。
 これは恐怖だろうか。
 ───恐怖よりも、ずっとおそろしいものの、ような気がする。
「俺から逃げられると思ったのか」
























 手が、
 ───違う熱だ、
 熱が触れる。
 抗おうとした手をつかまれて勢いよく扉に押しつけられる。にぶい音と痛み。
 うめきをもらした唇に彼のそれが触れる。熱だ。ぬるりと入ってきた熱に志人はかたく目を閉じた。からだがふるえた。熱がこわかった。彼がおそろしかった。
「………ッ、ぁっ……!?」
 わけがわからずに息が苦しくて、逃れようともがく。
 けれど逃げられなかった。
 あたまの芯がくらくらする、……これは快感だろうか。
「ぃッ……んッ、ッ!」
 熱、熱、熱。
 ────あつい。
「…………はッ、」
 離された、という事実にさえ意識が朦朧として、気がつくのにしばらく時間がかかった。
 霞んだ視界のなかで、兎木吊垓輔が笑っていた。
「………五分間」





















 離さない、そうつよく抱きしめられた行為が理解できなくて、ただ息を止めた。










理論的に愛してください




熱、それは欲情に直結するもっとも簡潔で明確で単純な、憐憫を感じるべき心。






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