2005.12.31/「わたしはあなたにささやくよ、あなたが切り落とされた耳に」






 こないだここに来たときは、蝉が鳴いていた。
 彼はそんな事を思った。狐の面を手に持ち、もう被っていない男には、すでに西東天という名前しかなかった。けれど彼はその名をあまり名乗りはしなかった──皆名前は知っているが、彼が名乗らないので呼ぶ事はすくなかった──理由は誰も知らないし、事実、彼にはとくに理由などなかった。問われれば敵≠フような例外を除けば名乗るし、自ら名乗る事も稀にあった。
 ただ、その名を口にしないのは、それを呼ぶ人間が十年前にいなくなった事が──理由、というより、原因、かもしれない。
 まぁ、それはいい。彼は思考を途絶した。
 彼は煙草を吸わなかったけれど、紫煙の香りを嗅ぎたいと不意に思った。
 しかしそれもどうでもいい事だ。ふたたびその思考を殺す。
 彼は下駄を履いた足を動かし、そんな事──思考をし、それをくだらないと切り捨てる──を繰り返しながら、歩き続けた。十年前、彼≠フ遺品となった狐面を握る手は冷えていた。けれどさむくはなかった。……正直、すこし肌寒かったけれど、平気だった。
 石段をのぼる。ここには何度も足を運んでいたが、何度来ても、複雑で曖昧な気分になる……彼は吐息した。吐息せずにはいられなかった。
 彼の気分はここに来ると沈鬱になり、すぐに浮上し、やがて落ち込み、ついには何も感じなくなる。何も思わないようにと細胞が拒絶する。それでも彼は考える。
 なぜなら、彼≠ヘ生きているからだ。
 いや──生きていた≠ニ、いまの段階では、そう告げるのが正しい。
 彼はそれを宣告するためにここに来た。
 彼は石段をのぼり切り、ひとつ息を吐いた。とくに体力があるわけでもなく、とくに能力があるわけでもない彼は、こんな石段ぐらいで疲れてしまうぐらいだった。十年前ならこうはいかなかっただろうな、と、笑う。
 ───何を笑っている。
 彼は自問した。
 それは彼のなかにいる、いた、彼≠フ声かもしれなかった。
「明楽、」
 彼は石段をのぼった先にある立入禁止区域に足を運び、そのなかの広場のような場所に躊躇いなく入っていった。
 ここを立入禁止にしたのは彼自身だったので、彼が入るのはかまわない事だった。
 つぶやいた名前は風に消えた。だから彼はもう一度呼んだ。
「明楽」
 たいしてひろくもない、土があるだけの場所。
 その中心に立って、彼は息を吐く。
「明楽」
 三度目は、ささやくように、呼んだ。
 そして彼は狐面を手から離した。
 いや、離した、のではなく──置いた。
「火葬、土葬、水葬……何がいいかわからねぇよ。わからねぇから、置いていく」
 愚かなひとりごとだと思った。
 返事はない。
 彼はふと、跪きたいような、倒れ込みたいような衝動に駆られた。けれどそれこそ愚かだと、愚かの極みだと彼は思った。
 そんな事に意味はない。
 彼は、
 彼のなかにいる、いた彼≠ヘ、

















「明楽」
 人類最悪は笑った。
 なぜ笑ったか、その理由はどうでもいいと、捨てた。
「会いてぇな」
 死んでいる、死んだ男にそう言った。
 答はない。
 彼はもう死んでいた。
 石段をのぼる前から──死んでいた。
「会いてぇよ」
 そして彼は死んだ男に向かって、最後とばかりに名前を呼んだ。
 その声はふるえも、かすれもしなかったが、笑いも含んでいなかった。










死にゆく君に告げる





あなたの答がなくなったけれど、わたしは行くよ。






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