2006.1.2/「恋」






 じゃあな、そんな挨拶だった。別れの挨拶とはいえなかった。ただの挨拶だった。
 一里塚木の実は西東天が十三階段を解散し、誰よりもはやく西東診療所を出たとき、だからかなしみはしなかった。もちろん少なからず落ち込んだし、ショックは受けたけれど──かなしさはなかった。さみしさは、すくなからずあったが。
 彼女は診療所を去っていく彼を見送った。いつものよにう悠々と歩く彼の後ろを木の実はついていく。彼女にはたしかな決意があった。
 西東天は駐車場まで来て、立ち止まった。そこには彼のポルシェがあった。ここに最初に来たときはなかったはずなのに、いつのまに持ってきたのだろう。それは木の実にもわからない。
「木の実」
 彼に名前を呼ばれて、木の実は顔を上げた。彼に名前を呼ばれると、いつもうれしかった。しあわせだとか、胸踊るとか、そんなふうではなく、ただうれしかった。
 いまもおなじ気持ちだった。
「はい」
「俺の敵と俺、どちらかが死ぬ日が来る」
 木の実は息を呑んだ。
 目の前にいる人類最悪が死ぬという事──それを一瞬で想像して、血の気が引いたからだ。
「その日に、ドクターを連れて来い。また連絡する」
「………はい」
 うなずいた声がすこしかすれた。車のドアを開けながらそれを聞いた彼は、不意に振り向いた。
「ん、何だ。落ち込んでるな」
「狐さんが死ぬかもしれないという話を聞いて平気な顔をしていられるほど、わたしくはつよくはありません」
 そう言うと、彼は一瞬口を閉ざし──それから狐の面をはずした。
 その表情に浮かぶ感情は、木の実にはうかがい知れない。
 そんな事がわかる人間は、いたとしても──もうこの世にはいないだろう。
「そうか」
「はい」
 木の実は彼を見上げたままうなずいた。
 彼は面を片手に持ち、ふと、空を見上げた。
 今日は朝から晴れていた。青空と白い雲が平和にひろがっている。
「しかしおそらく──負けるのは俺だ」
「…………」
「俺の娘は負けないだろう」
「………狐さん、」
「まだまだ生きたいが──世界のおわりを見たいが──だが、死んだらそこでおわりだ。あきらめるしかねぇな」
「それは避けられないのですか?」
「ああ」
 きっぱりとうなずいた。
 おそらくそれを避ける方法はあるのだろうが──彼のなかでは、それはない≠フと同義なのだろう。
 彼は運命の──物語の一部として、それはなるようにしかならない事だと思っている。
 木の実は彼が望むのなら、それ≠捻じ曲げる事ぐらいしてみせると思っているけれど──彼は決して、望まないだろう。
「狐さん」
 ならば。
 せめて、できる事は───
「わたくしはたとえ狐さんが死んでしまっても、死なせませんよ」
 そう告げると、彼は一瞬だけ不思議そうに眉をひそめて──それからすぐに、合点がいったようでわずかに目を見張った。
「あなたが明楽さんをあなたのなかで生かし続けたように──わたくしも、たとえあなたが死んでも、わたくしのなかで生かし続けます。わたくしが死ぬときまで」
 彼はしばらく、木の実を見つめた。探るような──確認するような──何ともいえない、仮面に覆われていない視線で、彼女を見た。
 そしてやがてひとり、うなずくと──笑った。
「お前はいい女だな、木の実」
 木の実も笑った。
「狐さんがだいすきですから」


















 じゃあな、と彼は言った。
 さよなら、と彼女は返した。










花が散る時私も散っていけたらいいのに





だからそれが叶わぬならば、その花を永遠に抱き続ける。






html / A Moveable Feast


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