2006.1.5/「目的のためならば無様であろう。しかし決して神に頭は下げぬ」






 ひどい痛み。













 喉が焼け裂けるような感覚になるまで叫び続ける。まばたきを忘れて限界まで瞳を見開き、細胞のひとつひとつがなぶられ犯されじわじわと殺されていく感覚に肌が皮膚が血管が限界を訴えるのを見る。耳に聞こえるのはぶちぶちとからだの何かが破れていく音。心臓の音も呼吸の音も感じず、感じるのはひどい快楽に近い苦痛。口内はあまい血の味。あまくてあまくて、やがてそれは苦味に変わり、そして唾液と混ざりこぼれ落ちていく。
 これが死だ。
 これが死だ!
 ひどい痛みだ。
 ひどい痛みだ!
 西東天はそれを感じた。人類最悪と謳われる男はそれを知った。遊び人と名乗る事になる男はそれを認識した。これが死だった。人間が死ぬという事だった。いや違う、人間ではない、西東天という男が死ぬ事──それが、これ、だった。
 目を閉じて逃げる事もゆるされない。耳を塞ぐ事も口を閉ざす事もできず、五感をなくす事は決してない。犯されて犯されて犯されて、それはまるで姉を抱いたときのような感覚だった。どちらの姉かわからずに名前を問うたが、彼女は答えなかった。彼女は弟を抱きしめた。それはやさしい仕草だったが、弟はその愛情に犯されて、結果的に犯した。姉の名前を呼び続けた。知らない、わからない名前を呼び続けた。呼び続けた気がしたが一度しか呼んでいなかった。姉は弟の名を呼んだ。何度も何度も何度も。そうしてまた犯された。
 そのときに似ている。ひどい快楽だったのに、それは苦痛をもたらした。それと酷似している。まるでおなじだ───!
 だがあのときは呼ぶ名があった。狂気に囚われるその直前、この現実に彼を留めるための呪文──姉の名を呼ぶ事で、最後に一度だけ知らないままわからないまま呼ぶ事で、彼はここに、こちら側に存在する事ができた。ゆるされたような気がした。けれどいまはそれさえもない、それさえもない、それさえもない、
 名前を呼びたかった。それは親友の名前だったかもしれない。同類の名前だったかもしれない。使用人の名前だったかもしれない。娘の名前だったかもしれない。自分の名前だったかもしれない。ふたりの姉の名前だったかもしれない。父の名前だったのかもしれない。母の名前だったのかもしれない。助手の名前だったかもしれない。実験体の名前だったかもしれない。師の名前だったかもしれない。神の名前だったかもしれない。
 けれどどれも不正解だった。神の名前さえ、彼を存在させる事は不可能だと断じた。
 西東天は殺された。
 狂気から彼を守る名前はなかった。ゆえに彼はひとりで死んだ。たったひとりで死に、落ちた。
































「ぅ」
 彼はうめいた。
 西東天は暗闇から目を開く事で解放され、ゆっくりと目を開いた。
 彼は周囲を見渡した。そこは天国にも地獄にも見えず、彼の記憶にある場所だった。死体がふたつ転がっていた。彼は起き上がった。
「あ、」
 彼は何かを言おうとした。
 名前を呼ぼうとしたのかもしれない。
 しかし彼は、ふと手に握っているものに気がついた。無意識のうちに手にしていたそれを見下ろす。彼の手は血にまみれ、当然手のなかのものも血で汚れていた。けれど洗えば落ちるものだ、そう彼は安堵した。それが彼のはじめての安心と微笑だった。
 彼は狐の仮面を握りしめた。
 それにゆるり、と触れ──彼は立ち上がった。
 転がる死体をそれぞれ見下ろし、目を伏せ、祈るようにうつむいた。祈っていたのかどうかは、彼自身にもわからない──名前を呼ぶ事は結局せずに、彼は目を開けた。
 そして、ゆるされた彼は歩き始める。
 狂気の世界ではない、たしかな現実の世界を、たったひとりで歩いていった。































 ───そう、これが生だ。










俺はもう少しでくたばろう





世界にゆるされなくなるその瞬間まで。






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