2006.3.19/「期待はしていないから、あきらめてもいないけれどね」






 そのとき、西東天は眠っていた。なので部屋に入った奇野頼知には気がつかなかった。
「………狐さん?」
 寝てるんですか、と、頼知は首を傾げた。
 返事はない。畳の上に、布団も敷かずに目を閉じて規則的な呼吸を繰り返している彼は、眠っているようにしか見えなかった。そしてそれが事実らしかった。
(………寝顔ってはじめて見たかも)
 後ろ手にそーっと、音が立たないように注意しながら襖を閉ざす。その間にも、視線はずっと彼からは離していない。いつも彼の顔を覆っている狐面は、いまは彼の頭上に無造作に放置されていた。きれいな顔立ちは寝顔を形成して、頼知には気がつかない。
(毛布もかけないで寒くないのかな、)
 着物一枚の彼に、今日はすこし記憶が低い。きょろ、と部屋を見回したが、その部屋には何もなかった。押し入れでもあるかと思ったが、それさえない。頼知は自身の部屋から持ってこようかと思ったが、ふと彼が身じろぎしたので、振り返った。
(起こした?)
 ひとの気配には敏感なひとだと、思う。
 頼知はそろそろと歩み寄って、彼に近づいた。傍らに跪き、そっと顔をのぞき込む。
「狐さん?」
 ちいさな呼びかけに、彼は目を開けた。
 その目は完全に覚醒していて、寝惚けてもいなければ、現実が見えていないわけでもなかった。
 ただ、目の前にいる頼知を見ていないだけで。
「………ここが」
 何となく力が抜けているふうな、覇気のない声。
 そんな彼はめずらしかった。
 しずかな──しずかな、彼は。
「ここが、俺の生きる世界か」
 ひとりごと。
 返事を求めていない、ただの確認事項だった。
 それだけは頼知にもわかった。だから開きかけた唇を閉ざし、ぐ、と畳の上に置いた拳を握りしめるに留めた。
「おかしな話だ。生まれた瞬間から、俺たちはひとつの可能性を潰されている。生きる世界を決めるという可能性を──だがそれでうまく世界≠ヘ循環しているんだ。だからおもしれぇんだな」
 そこではじめて、頼知を見る。
 彼はふ、と笑って──それは滅多に向けられない、やさしいものだった──ようやく頼知に、言葉を向けた。
「お前の世界は?頼知」
 とても曖昧で、抽象的な問い。
 だが不思議と答えるべき事は何かわかっていた。
 だからすぐに答えた。
「俺は、俺の世界を捨てました」
「………ほう」
「狐さんの世界で、俺は生きたいです」
「いまの俺の言葉を聞いていなかったか?俺たちは生まれたときから、その選択権だけはねぇんだよ」
「それでも、」
 身を乗り出して、真っ向から目線を合わせる。
 彼のしずかな瞳はいつものように頼知を見据え、射抜いていた。
「それでも俺は──狐さんと、同じ世界に、いたいです」
 この広い世界≠ナはなく、ひとりの世界に。
 彼の世界に────
「………俺の事を何も知らねぇだろ?」
 彼は笑みをふかくした。
 まるでかわいそうな何かをいとおしむような、そんな、皮肉な笑みだった。
「知りもせず──そんな望みを持つのは、愚かの極みだ。頼知」
「なら、教えてくれるんですか」
 頼知は怯まずに言葉を返す。
 きっ、と決意を秘めた瞳で彼を見て。
「あなたの事を──俺の知らないあなたを、教えてくれるんですか。狐さん」
 ────答は。
 答は、いっそ、やさしくもあった。
 あまい、声だった。























「嫌だね」










同じ罪を背負う事などできないくせに





背負いたかった。
背負ってほしかったひとは、どこにもいなかったのとおなじように。






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