2006.1.9/「すきです」
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「あの」
「ん?」
「俺」
「ああ」
「………えっと」
「何だ、はっきり言え。そろそろスピード出すぞ」
「狐さんは好きなひととかいますか」
「あ?何だ、聞こえねぇ」
「狐さんは好きなひといますかって訊いたんです!!」
その大声は風に乗って、道路を走る他の車やバイクにも聞こえたかもしれない。
まぁそんな事は万が一にもないだろう。そう思う事にして、西東天は助手席に座る部下をちらり、と一瞥する。
奇野頼知のあまりにも真剣すぎる顔がおもしろすぎたのと、運転中だからという事もあり、すぐに前を向いたけれど。
「そんなもん訊いてどうする」
「そりゃ───」
答えようとして、はっとしたように口をつぐむ様子を視界の隅におさめながら、彼は笑みを必死に堪えた。それでも微笑程度はこぼれてしまったが、かまわないだろう。
───まったく。
こんなんだから飽きないんだよな、こいつは。
「と───とにかく答えてくださいよ!可愛い部下の質問ですよ!」
「べつに可愛くねぇけど」
「酷ッ!狐さん酷ッ!」
「いまさらな事を言うな。そもそも好きなひとって、なぁ──ずいぶん曖昧な質問すんな」
無表情にそう言ってみせる。当然、質問の意味、その奥深いところまで西東天は知り尽くしているが──ここは知らないふりをするのがいいだろう。その方がおもしろい。
「曖昧、……とは」
「好きなひと、ね──それは何だ、具体的にはどういう好き≠ネんだ?ただ好きな人間なら、俺にはたくさんいるぞ」
「た、たくさん……?」
ああ、とうなずいてみせる。そうすると頼知はしばらく考え込むように黙した──
……おそらく、そのたくさん≠フ中に自分が入ってるか考えているのだろう。
何も言わなくても、ほんとうにわかりやすい奴だな、と思う。
ときどき、ほんとうに《呪い名》かと思うほどだ。
「えと……そうじゃなくてですね。何か、あるじゃないすか。何ていうか………そう、とくべつ!とくべつにこいつ好きだなってやつ!」
直接的な言葉を使わないようにしているが、どちらにしてもわかってしまうという事を自覚していないのだろうか。
いっそ哀れにも思えてきて、彼はその感情のままに素直に答えてやった。
「いるぜ」
あまりにも簡潔な、次の質問に繋げるためだけの答だったが。
「マジですかッ!?」
「ああ、マジだ」
「誰!?誰なのそれッ!?」
「お前」
「え」
「というのは冗談だ」
あまりにもおもしろいので思わず性質の悪い冗談を言ってしまった。視界の隅にがっくりと肩をうなだれさせる頼知を認識して、悪かったかな、とちょっとだけ思う。
いや、実はそんな事思わなかったが。
「そんな事聞いてどうする?」
「………べつに、ほら、雑談ですよ雑談!いいっしょ、こういうのも!」
「雑談」
繰り返し、彼は返答に迷った。
答はある。
とくべつに好きな人間。
このおもしろい世界に生きる人々を、嫌いだと思う事など滅多になく、むしろすべていとおしいと思う事さえあるが──そのなかでも、群を抜いていとおしい、とくべつに好きな、愛する人間がいる。
それは事実だ。
人類最悪だって人間だ。さらに三十九年間生きていれば、そんな人間に出会う事もある。
彼は出会った。
しかしそれを正直に答えれば、おそらく助手席に座る病毒遣いは、これまでの比じゃなく落ち込むだろう──それが目に見えているから、躊躇われる。べつに頼知の気分や機嫌がどう上昇しても下降しても本来ならどうでもいいのだが、頼知はあまりにもわかりやすい──仕事に支障を来たしてしまう場合がある。以前、そういう事があった。
だが、まさか嘘を吐くわけにもいかない。
おそらく奇野頼知は西東天をとくべつに好きだと思っているのだろうが───
西東天にとって、その枠内に奇野頼知は存在しない。
残酷なようだがこればかりは仕方がない、真実だ──嘘を吐く事は簡単だが、そうなると後々面倒だろう。
さて、どうするか───
「聞きたいか」
「え?」
「俺がとくべつに好き≠ネ人間」
「聞き……聞きたいです!!」
おそらく勇気を振りしぼったゆえだろう、上擦った声。
ほんとうにわかりやすいなぁ。
おもしろすぎる。
「………悪ぃ」
「はい?」
「そんな人間は、いまはいねぇ」
───半分嘘で、半分真実。
「ずっと前に死んだ」
まぁ、妥当な答だろう──そう告げると、頼知は目を見開いて、しばらくそのまま狐の面を凝視し──それから正面を向いて、すみません、とちいさくつぶやいた。
「べつに。で、お前はどうなんだ?」
「はぁ、俺っすか、俺はいますよもちろん……って何!?」
「俺が答えたんだからお前も言えよ。とくべつに好き≠ネ人間とやら──は、誰なんだ?」
これは相当意地の悪い質問だ。
わかりきっている(その事を頼知は知らないだろうが)答を、求めているのだから。
「えっ──と!」
「何だ、雑談なんだろう?かるく言えよ、かるく」
「う───」
言葉に詰まったようにあわあわとする頼知に、笑みを堪える──狐面をかぶっていてよかった、とかすかに思った。
「い──います、よ」
「それは聞いた」
正面を向きながら返事をし、赤信号を見て取って、ポルシェを停止させる。
「……………………俺ッ!」
赤信号をぼんやりまっていると、頼知が不意に叫ぶように言った。
どうやらようやく決心したらしい。
さて、どんな言葉で言ってくれるのか──
「俺ッ、狐さんの───」
「お」
顔を真っ赤にしながら力いっぱい拳を握りしめて言うセリフの途中、彼は声を上げた。
わざとではない。
携帯電話が鳴ったのだ。
「ちょっとまて」
ナイスタイミング、バッドタイミング。
へなへなと、脱力したように──実際脱力しているのだろう──座席に背をもたれかけさせる頼知を横目に、まだ信号が赤なのを確認し、通話を受ける。
「もしもし」
『狐さん?るれろだけど』
「ああ、どうした?」
それから二言三言交わし、通話を切った。信号はまだ赤だ。ここの交差点は長い。とくに今日は休日の昼間だ。
「………誰っすかいまの電話」
不貞腐れたような声音が、横から聞こえる。
見ると、頼知がほんとうにぐれた少年のごとく、下駄を脱いで座席に足を乗っけて、膝を抱えてむすっとした顔をしていた。
何歳だこいつ──と、笑ってしまう。
ああもう、仕方ねぇなぁ。
彼は何とか、顔に浮かぶ笑みを微笑にとどめる努力をしながら、狐の面を取った。
「頼知」
呼びかけると、頼知は相変わらずの表情で振り返った。
その首筋に手を伸ばし──ちなみのその仕草のあいだ、意図的に首筋に指を這わせてみた──、引き寄せる。
そして額に唇を寄せた。
一瞬だけ触れて、音を立てて離れる。
それからもとの位置にもどり、仮面をかぶりなおしたときに、ちょうど信号が青になった。
発車させ、しばらく沈黙のまま走り続ける。
「………狐さん」
ちいさな声に、ん、と頼知をちらりと見た。
頼知はいまだ茫然とした顔のまま、額にてのひらを当てている。
「───さっきの」
「サービスだ」
「サ……?」
「可愛い部下への、な」
そう、肩をすくめてみせる。
頼知は目を見開いたまま、彼を凝視して──
やがて、はっ、と笑った。
「…………あのね狐さん」
俺が、とくべつに、すっげーとくべつに、好きなのは、
そう前置きされ、満面笑顔のまま自分の名前を呼んでくる病毒遣いに、人類最悪はどう答えてやろうかと考え──仮面の下で意地悪く、それでいてとてもおもしろそうに、笑った。
失礼しました、神様。
あなたには永遠にかなわない、そうきみは笑った。
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