2006.2.9/「その笑顔はわたしのものにはならないけれど」






 狐さんの笑った顔が好きだった。
 常に、と言ってもいいほど、狐さんは仮面をつけちゃっているからその素顔を拝む事は滅多にないけれど──ほんとうに、拝む、という言葉がぴったりだぜ──狐さんはときどきその面を外す事がある。狐さんの中のどんなルールに基づいてはずしているのかはわからないから、ほとんどが不意打ちで、何度見たってこの俺、奇野頼知の心臓はばくばくしちゃうわけだが。だって愛しちゃってるし。……いや、さすがにご飯のときはあらかじめわかってるから、比較的(俺の心臓は)(あくまで比較的)平常だけど。
 まぁとにかく、そんな狐さんの素顔というものは、俺は見るだけでけっこう駄目なくらいなんだけど──その顔が笑顔に変わるとき、俺はほんとうに死んでしまうんじゃないかというくらいに心臓が熱くなって、いや心臓だけじゃないからだ中もじわじわと熱を持ち、どうしようもなくなっていく。
 なまじきれいな顔してるもんだから、笑うととんでもなくなるんだよな、あのひと。
 しかも俺が想う狐さんの笑顔っていうのは、貴重なもので──滅多に誰かに向けられる事はない。狐さんの笑顔。皮肉なものでもない、ひとをバカにしたようなものでもない、
 ただ笑った、というような。
 ふとこぼれ落ちた、微笑にちかい笑顔。
 それが、たとえようがないくらいきれいで、……そしておそらくこれは俺の個人的見解なのだろうが可愛い。












「……見てぇなぁ」
 ひとりでそんな事を思っていたら、声に出してしまった。はっとして辺りを見回すが、とりあえず誰もいないようだ。ほっと胸を撫で下ろして、ふたたび歩き出す。
 狐さんの頼み(っていうかわがままだろあれ、というのはるれろの言葉。俺も否定はできない)で、買出しに行っていた帰り。けっこうころころ変わる住処は、現在そこそこのホテル。ああいう、ちょっといい感じのホテルに泊まるのがいちばん多い。
 夏の日差しの中を歩く。暑いけど、寒さよりはマシだ。俺はホテルに着いて、適当に鼻歌なんて歌いながら他に誰もいないエレベーターに乗った。最上階より三個下のボタンを押して、途中止まる事なくそこに着く。ホテルにしてはめずらしい。夕方四時とかいう半端な時間だからかな。
 エレベーターを出て、廊下を歩く。角を曲がってまっすぐ、そのいちばん奥が狐さんのいる部屋だった。ちなみに当然のように個室。……当たり前だよな、うん。
「狐さーん?」
 こんこん、とノックして呼びかける。でも返事はなし。
 扉の間にはスリッパが挟まっている。無用心だなぁ、と思いながら、俺は扉を押し開いた。後ろ手に閉めて、そのまま中に入る。
「狐さん?買ってきましたよ、どれかわかんなかったから適当に……」
 部屋の通路をまっすぐ進んで、寝室となるベッドがある空間に足を踏み入れたとき、俺は言葉を止めた。
 狐さんはいた。
 ベッドに腰掛けて、電話している。
 俺の方をちらりと見て、すぐに目をそらした。電話の相手に何かしゃべっている。……日本語じゃなかった。英語だ。
 自慢じゃないが勉強なんて知らない(《呪い名》だしね!)俺にはさっぱりわからず、仕方なく俺は何とはなしに買ってきた袋の中身を確認しながら電話がおわるのを待った。狐さんに頼まれたのは、なぜかお茶だった。このホテルに置いてあるお茶が気に食わなかったらしい。それよりもコンビニとかに置いてある安物が最近は好きだとか言って、そういうところにこだわるところが謎だ。……ただのひまつぶし、プラス気まぐれの可能性大だけど。
 すぐに確認はおわり、俺はふたたび狐さんに視線をやった。狐さんを見ているだけで何時間もつぶせる自信があるこのキノラッチだ。狐さんを心置きなく見ていよう。電話中だからじろじろ見ても怒られないと思うし。
 狐さんは狐面をはずしている。電話だからだろうか。いや、いままで電話してるところは何度か見たけど、そのときも狐面はしたままだった。何でだろう?
 けれどそんな疑問はすぐに吹き飛んだ。













 不意に狐さんが笑ったからだ。
 しかも───しかもそれは、さっき俺が思い描いていた笑顔、そのもの。
 ふとこぼれた、口元に浮かぶ微笑。
 細められる目には、窺い知れない感情の色が浮かんでいた。
 きれいで、……可愛い。













(うわぁ……!)
 思わず上げかけた感嘆の声を何とか押し殺す。けど顔がかーっと赤くなっていくのを感じた。からだが熱い。心臓うるせぇ。
「やば………」
 反則です狐さん。その笑顔反則です!
 心の中で抗議する。俺に向けられていないのがかなしいところだけど、それでも死にそうです。っていうかあんな笑顔が俺に向けられたら死んでもいい。いや嘘押し倒すと思う。
(……っていうかいま押し倒したくなってきた、)
 ひさしぶりに見たせいか、日に日に狐さんへの愛情が増しているせいか。所詮願望だけど。希望だけど。ああ、それともこれって、狐さんが笑顔を向けている相手への嫉妬もあるのかな──あるな、こりゃ。俺こそわがままだな……








 ────でも触れたい。








「き──つね、さん」
 かすれた声で、思わず名前を呼んだ。
 狐さんは言葉を発しながらも俺に目を向ける。今度はすぐにそらしたりしなかった。
「……Wait a little,──何だ頼知。用があるなら電話がおわるまで……」
「電話──切って、ください」
 ものすごく勝手な欲望。
 いつもなら一蹴するそれを、けれどそのとき狐さんは、一瞬黙って聞き──それから、
「If it is possible for you, try to run out of this telephone?」
 そう、流暢な、あざやかな発音で──英語で言ってみせた。
「………………」
 ……英語なんてわからない。
 わかんねぇけど───
「狐さん、」
 お茶の入ったビニール袋を床に放り捨てて、足を進めた。
 ベッドの傍ら、狐さんの目の前に立つ。
 狐さんは俺を見上げてきていた。さきほどとは違う、いつもの──自信にあふれた笑顔で、俺を見ている。
 狐さんが耳に押し当てている受話器からは、(英語の)男の声が聞こえてきて、狐さんもそれにときどき答えていた。
 けれどその視線は俺を見据えている。
 俺もそれを真っ向から受け止めた。
「…………覚悟、してください、ね」
















 英語なんてわからないけれど、
 ───挑発された事ぐらいはわかる。
 それを誘い文句だと勘違いするには、いささか傲慢すぎるかもしれないけれど、
(……誘われたと、思っておこう)
 ひそやかに思って手を伸ばした。
 受話器の声に答えようとした唇を塞いで、そのからだをシーツの上に押し倒して、






















 ───ああ、笑顔はもちろん、やっぱりきれいで可愛いです、あんた。









嘘よりも可愛いひと




=お前にできるものならこの電話を切らせてみろ。






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