どうか僕のいない世界で
「失礼」










 しずかな声だ、と、まずそんなどうでもいい事があたまを過ぎった。
「隣、よろしいですか」
「───ええ、どうぞ」
 塾に行く途中のバスだった。流暢な日本語を話す割に、隣に座った男は日本人には見えない──では何人に見えるかと言われればこまる。黒髪と黒目、目の下には黒ずんだ隈があった。白い服と青白い肌。こんなに寒い日なのに、肌が見えるほど薄着だ。
 そんな事までついつい見てしまったのは、わざわざ空席に座るというのに声をかけた人間がめずらしいからだった。
 くわえて、その声が耳に心地よいしずかな声だったからだろうか。
 夜神月はそんなところまで考えて、そうしてすぐにくだらないと自らの思考を一蹴した。そうして窓の外に目をやったとき、雪が降っている事に気がつく。それは雨にちかい雪で、積もる事なく溶けるだろうが、月はもとから空から降る雪を見るのが好きだったのでかまわなかった。はらはらと暗い空から落ちてくるうつくしい白い結晶を、ぼんやりと眺める。
 ───こんな退屈な人生でも、雪には心を奪われる。
 受験まであと数ヶ月で、しかし月は毎日しっかりと勉強しているし、学校にも塾にも家族にさえも心配される事はなかった。それがまた彼を退屈にさせる。








 もっと出来の悪い人間に生まれたかった。








 それはとてもひどく、愚かな願いだった。それでもそれは月の心に常にあった。
「この街では雪が降らないと聞いていました」
 そのときふと、となりの男がつぶやいた。月は目を向けて、しかしその黒い瞳は月を通り越して窓の外を見ている事に気がつく。それでもそれは、隣に座る月に向けられた言葉だとわかり、月はわずかに微笑んで答えた。
「雪は降りますよ。ただ積もらないだけです」
「そうですか」
「この街ははじめてですか」
「ええ、この街は」
 ふかく問うてもいい事か、そう月は一瞬悩んだ──けれどその前に、男は続けて言葉を紡ぐ。それはまるで月の心中を読み取ったかのような言動だった。
「うつくしい雪ですね」
「………ええ」
「この世界にもうつくしいものはあると気づきます」
 詩人だろうか、と思う。それほどにその言葉は、初対面の、しかもただ隣に座ったというだけの人間に語るには澄んだものだった。
「私は汚く醜いものを見る事が多いんです」
「……そうなんですか」
「でもこの世界はまだ、守る価値がある」
「守る?」
「そうです。なのに皆気がつかない──あなたはそれを知っていますか?」
「え?」
 不意に投げかけられた問いとともに、はじめて男の視線が雪から月に向けられた。
 何も映さないようでいて、何もかもを見透かすようなふかい黒。
 月は不意に、夢を見ている、そう思った。そんな感覚に陥った。
「知らないのなら知るべきだ。あなたは──この世界をうつくしいのだと、」







 ────そして、守り、愛しみ、癒すべきだと。

























 ……ふと月が目を開けたとき、隣にはもう誰もいなかった。
 夢だったのか、と思う。しかし時計を見れば、さきほど男が背を向けてバスから降りたときから、五分ほどしか経っていない。
 夢なのか現実だったのかわからないほど、曖昧な記憶。
 ───しかし、それにしても本当に、まるで思想を見抜いたような事を言う男だった。
 いや、あの男の思想が、月の思想に似ていた、それだけの事だろうか。










 雪がきれいだと思う。
 それで、退屈が紛れると月は感じる。
 男は世界がうつくしいと感じる。













 それは対をなすように見えて、実はとても似た感受性だと思うのだ。
(世界はうつくしい)
 停車駅まで、あとひとつ。
(───だから退屈で、守る価値などどこにもない)
 くだらない事を、そう思って目を伏せた月の記憶に、もう男の姿はなかった。






                       2005.9.29執筆/2005.10.10掲載
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