一度だけ俺は、お前に傷つけられた事があるんだ。
お前は知らないだろうけれど。
手をつかまれた。
何の根拠もなく、それがあの男だと思って振り返ったけれど、違って──考えてみれば当たり前だと思う。彼はいまは、ルーファウスの下した命令でここにはいないのだ。バカな事を考えている……
「………何だ、レノ」
「ひどい顔してんぞ社長」
不機嫌そうに言い放って追い払おうとする、その動作の合間に早口に言われて、止まる──その隙を逃さないように、レノはつかんだ腕に力を込めて、ずいっと顔を近づけてきた。
「寝不足?熱?それとも過労?」
「レノ、おい……」
「何でもいいからいますぐやすんだ方がいいって面してるぞ、と」
うかがうように見られて、ルーファウスは息を止めた。一瞬かたく目を閉じて、次に目を開けたときは今度こそ乱暴に手を振り払う。レノは抵抗する事なく、それを受けた。
それでもルーファウスを見る目線はそらす事なく、まっすぐに上司を見据えている。
「いまはとくにクラウドたちにもとくべつな動きはないし……何かあったらすぐに呼ぶから、俺たちに任せて休めよ。社長?」
部下とはいえ、年上で、ルーファウスよりも神羅に長く勤めているレノだ。このアドバイスは的確だし、ルーファウスは部下の心遣いを受け入れるべきだろうけれど───
「嫌だ」
……出てきた答は、理性を超えている。
「何わがまま言ってんだぞ、と」
当然レノも、あきれたように息を吐いた。その瞳に映る自身の顔色は、たしかに悪いような気がする。……けれどルーファウスはあえてそれを無視して、目をそらすように踵を返すと、ふたたび廊下を進み始めた。
「って、おい」
当然のようについてくるレノは無視して、歩く。たったいま会議がおわったばかりで、もう一度それを確認して状況を整理して、報告を聞いて……仕事は山積みだ。レノにかまっているひまはないとばかりに背を向ける。
「社長、」
「もういいから仕事にもどれ、私は大丈夫だ」
「大丈夫に見えねぇから言ってんだろ、おい、ちょっと、社長!」
ふたたび手をつかまれ──今度は逃がさないためか、そのまま引っ張られて壁に押しつけられた。どん、と背中が少々乱暴にぶつかって、痛む。
顔をしかめるが、レノはおかまいなしに、言った。
「───やすめよ」
「………」
「ツォンさんがいても、絶対、そう言ってたぞ……と」
ささやくように言われた名前に、びくり、とからだがわずかに揺れた。それはほんとうにちいさなものだったが、手首をつかんでいるレノにはばればれだ。ち、とちいさく舌打ちする。
───そうだ。
あいつならきっと、そう言う。
仕事だから、と装いながらも、その瞳を心配の色に染めて。
おやすみになってください、そう懇願するような声で、言ってくれただろう。
その声の調子も、表情も、体温も、何ひとつ偽りなく思い出せる。
(………思い出せるよ、)
ここにはいない。
ツォンはセフィロスを追って、いつものようにここを出て──帰って、こない。
「あんた、無理しすぎだ。ツォンさんの事気になるのはわかるけど、」
「ツォンの事は信じてる」
遮るように、ルーファウスは言った。
言葉が素直に唇がこぼれた。……ああ、これが、疲れているという証拠だろうか。
「だから大丈夫だ。待つ事くらいできる。あいつは絶対に帰ってくる──私のところへ」
────何度も、
ツォンは、帰ってきた。
「………いつだって私を迎えに来てくれたから」
つぶやくような言葉に、レノが手のちからを緩めた。
ゆっくりと離される。ルーファウスは知らず、うつむきかけていた顔を上げて、レノを見た。
「でも、辛いんだな」
ぽつり、と言われて、ルーファウスは微笑した。
「────すこしだけ」
結局その日は、はやく帰ってやすむ、という事でレノと妥協した。約束の地がちかくなっているのだから、無理をするのも仕方がないとレノも思ってくれたようだ。
重いからだをシーツに沈み込まれて、目を伏せる。
それでも睡魔はなかなか襲ってこなくて、ルーファウスはちいさく息を吐いた。
(………こんな事ぐらいで崩れたりはしない)
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
最近ひとりになると、どうしても、考えてしまうけれど。
(お前が帰ってくるのはわかっている)
わかっている。
(まつ事ぐらいできる)
そんな事ぐらいできる。
いつだって、ひとりのルーファウスを迎えに来たのは、ツォンだったのだから。
……ルーファウスはちいさく笑った。こんなひとりよがりの思想は、虚しい。
まるで、ここには存在しない神を想っているようだ。
「………でも、辛いな」
ぽつり、とつぶやいて、目を開く。
お前がいない事に傷ついている。
お前にこんなに傷つけられたのははじめてだ、
(………ツォン)
心のなかで唱えた名前、
好きだと、彼の不在に、ルーファウスははじめて気がついた。
───彼が、好きなのだと。
「………はやく来い、バカ」
愚痴のようなひとりごとは、祈りに似ていた。
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