あるべききみを



「あつ、」
 反射的にこぼれた、というふうな言葉は、黒い雫といっしょに床に落ちていった。
 イリーナが顔を上げると、視線の先にはコーヒーカップをテーブルの上にあわてて置いて、顔をしかめているルーファウスの姿があった。
 見ると、ルーファウスの真っ白なスーツの袖に、黒い染みがじわじわとできていた。床にもあるその黒の源は、コーヒーだ──つまるところ、コーヒーをこぼしてしまったらしい。
「しゃ、社長、大丈夫ですか?」
 彼の右手にも黒が飛んでいる事に気がついて、イリーナは持っていた資料の束をその辺に放り、声をかけながらもとりあえずポケットからハンカチを取り出してルーファウスの手を拭いた。そんなに熱かったわけではないらしく、火傷の心配はなさそうだ。
 それでもいちおう、と、ハンカチを裏返してそれはスーツに飛んだ黒へ当てておく。
「これ、おさえててください」
 そう言って、返事を聞くよりもはやくキッチンの方にばたばたと走っていった。現在住処としているヒーリンにある建物は、神羅時代とはさすがに比べ物にはならないが、必要最低限の設備はついている。イリーナはここを、神羅の非常逃走用の極秘な建物だとレノから聞いていた。
 だから簡易ではあるが、それなりに不自由はしていない。
 イリーナはハンドタオルを引っ掴み、それを水で濡らしてつよく絞ってから、またばたばたと走りルーファウスのもとにもどった。椅子に座って憮然とした顔をしているルーファウスへ、タオルを見せる。
「えっと、とりあえずこれで拭いても……」
「……ああ、大丈夫だ。自分でやる」
 ありがとう、とハンカチを返される。反射的に受け取り、そしてタオルを渡した。ルーファウスはそれを左手に持ち、右の袖をぽんぽん、とタオルで叩いた。
「着替え……持ってきましょうか?わたし、洗いますよ」
「ああ、そうだな……あとで頼む」
 そう言ったきり、ルーファウスは何も言わない。
 イリーナはちょっとこまってしまって、拳を握った。
 ───ルーファウスの右手を包む包帯。
 コーヒーをこぼしてしまったのは、包帯の向こうにある、この黒よりも惨い染みのせいだと──イリーナにはわかっている。
 けれど何も言えない。
 イリーナはルーファウスの事を上司として尊敬しているし、好きだと思っている。タークスとして、彼を守る事は最優先だ。仕事が大好きな彼女にとっては当然の事──だが彼女はツォンのように幼い頃から彼を守ってきたわけでもなく、レノのように仲が良いわけでもなく、ルードのようにしっかりと彼を守れるわけでもない。
 だから──というだけではないが、イリーナはルーファウスとこうして一対一で向き合う事はあまりなかった。たいてい彼と話すのはツォンかレノだ。ルードはそもそもしゃべらないし。
「大丈夫、ですか」
 どうしようかな、と思っていたら、勝手にそんな言葉が口を突いて出た。
 驚いたように顔を上げるルーファウスを見下ろすかたちになっている事に、イリーナはそのときはじめて気がついた。
「………イリーナ」
「は、はい」
「すこし話につきあえ。いいか?」
「え……あ、はい」
 一瞬いぶかしんだが、すぐにうなずいた。ルーファウスは右目だけ──左目は包帯で覆われている──イリーナに向けて、言った。
「私は死ぬだろう」
 あっさりと、簡潔に。
 だがその意味のあまりの重さに、イリーナは硬直してしまった。言葉も発せずに立ち尽くしていると、ルーファウスは淡々と言葉を続けた。
「星痕症候群──治療法が皆無の病だ。ツォンは治療法をさがしているようだが、おそらく無理だ。私の病は進みすぎているというわけではないが、進んでいないというわけでもない──治療法が見つかる前に死ぬだろう」
 その青い瞳に宿る感情は、イリーナにははかり知れない。
「レノとルードには、治療法よりもこの原因と、セフィロスの残骸≠探索させている……私の警護よりも、イリーナ、お前もそちらにまわれ」
「で──でも、そうしたら社長が、」
「ツォンをもどらせる。私はいいと言うのに、あいつは勝手に治療法をさがしているだけだ……たぶんあとすこしで帰ってくる」
 迷いなくそう言うルーファウスに、イリーナは何かを紡ごうと唇を開き、閉じ──噛みしめた。
 ……イリーナはルーファウスの事を、上司だから、というただそれだけで守りたいと思っている。
 けれど、上司としてではなく、彼自身のまぶしいほどの強さを守りたいという気持ちだって──他のタークスにはかなわないにしても、すこしだけでも、あるのだ。
「わたしたちは──死なせませんから」
 言葉は勝手にこぼれていた。
 ルーファウスが眉をひそめる。
 そんな彼を真っ向から見据えて、イリーナは決意をぶつけた。
「わたしたちは、社長の事、絶対、助けてみせます!」
 威勢よくそう言うと、ルーファウスは右目をぱちくり、とさせて──
 それから、ふ、と微笑んだ。
 彼にしてはめずらしい、やさしく、おだやかなそれ。
「……あいつと同じ事を言うんだな」
「え?」
「ツォン」
 呼びかけるように、彼はその名前を口にした。
「ツォンにも言われた。私たちが、必ずあなたをお救いします>氛氓ニ」
 思い出すように目を細めるルーファウスに、イリーナは息を呑んだ。
 ………わかっていた。
 イリーナはツォンの事を見ていたから──
 ツォンがルーファウスの事を、誰よりも大事にたいせつに想っている事も、
 ルーファウスにとってツォンは、とくべつでしょうがない相手だという事も。
「イリーナ。これは仮定の話だが」
「は?」
「私が死んだ後、ツォンを任せる」
「───えぇ?」
 わけがわからなくて、思わずまぬけな声が出た。
 たとえばこのセリフが、社長がタークスの主任であるツォンに、部下をよろしく頼むと言うのならまだわかるが、イリーナはタークスの中でいちばんの新人だ。
 新人に主任を任せるなど、どういう事だろう──
「な、何言ってるんですか、ツォンさんを──っていうか社長は死んだりなんか──」
「私はずっとツォンを縛っていた」
 しずかに言われた言葉は、一瞬だけ懺悔の響きを纏っていた。
「できうるなら私が死ぬまで縛っているつもりだったんだがな──さすがに私が死んだら、解放するしかない。お前に任せる」
「それって……どういう意味ですか?」
「ああ、べつに、おさがりとかそういう意味じゃ──そうじゃない。あいつは、ああ見えて、ひとりじゃ駄目なんだ」
 べつにそんな事は思っていないと言う前に、意外な言葉が吐き出されて、イリーナは思わず笑った。
「ツォンさんが?そんな──タークスの中じゃ誰よりもつよいひとじゃないですか」
「そうだな。だが、ツォンは……つよいから。だからあいつは知っている。生きるためには、どんなにつよくてもひとりでは生きていけないのだと。そしてあいつは、その生を他人という誰かに捧げる事でもっともつよくなるタイプの人間だ。ゆえに、その誰かがいなくなったとき、簡単に生に繋がるつよさは崩れる──」
 ルーファウスは微笑む。
「私はあいつに何も悔やませたくない。私という誰か≠ェいなくなっても、つよく、生きてほしい」
「………あのひとが崩れないように、わたしに任せるって事ですか?」
「ああ、そうだ」
 答え、イリーナから視線をはずすと、ルーファウスは袖からタオルを離した。それを傍らに置く。白いスーツには、黒い染みが薄く残っていた。
「あいつをひとりにしなければ、それでいい」
 見上げてきたルーファウスに、イリーナはしばらく思考し──
 そして、答えた。
「……お言葉ですが社長。社長が生きてなくちゃ、やっぱり、何の話にもなりません」
 きっぱりと告げると、ルーファウスは不思議そうな顔をした。
 年相応の顔に、そんなにこの王と年が離れていないのだと、イリーナは思い知らされる。
「どういう───」
「ツォンさんは、誰か≠カゃなくて、社長のためだけにつよくなれるひとだからです」
 ルーファウスは驚いている。
 それがわかって、イリーナは微笑んだ。
「わたし、ずっとツォンさんの事見てましたから、わかります。ツォンさんは──社長が好きなんです。社長じゃなきゃ駄目なんです。生きる事を捧げられるひとは、社長しかいなくて、つよくあれるのは社長が生きているからなんです」
 だから、と続けた。
「社長を死なせません。ツォンさんの事も社長の事も好きですから。だから社長も、ツォンさんの事が好きなら──死なないでください」
「…………は」
 イリーナの言葉に、ルーファウスはしばらく聞き入っていたが、やがて笑った。
 ひどく、おかしそうに。
「……お前はタークスの誰よりもつよいな、イリーナ」
「へ?」
 そうして意外な返答に、イリーナは目をまるくした。
「お前たちがいて、本当によかった」
 そう言って笑ったルーファウスは、とてもきれいで。
 女としてうらやましいほどだと──イリーナは思った。


















「イリーナ?と──社長?」
 そのとき、扉が開いて──ツォンが入ってきた。
 ちょうど話題の人物が帰ってきた事に、イリーナとルーファウスは思わず顔を見合わせて、そして笑ってしまった。
「………何ですか?」
 いぶかしげに眉をひそめるツォンに、ルーファウスが笑って何でもない、と言った。
 まだ笑い続けるイリーナを不思議そうに一瞥してから、ツォンは思い出したように報告した。
「社長、レノとルードからの情報です。北の大空洞に、最近人間の出入りがあったと──情報によれば三人。ここ二年はまったくなかったのに、……先日突然、あったとか」
「大空洞か」
 確認するように繰り返すルーファウスに、ツォンがうなずく。
「盲点でした。あの場所は二年前、戦いの直後に確認したときは崩れただけで何もありませんでしたが──二年経ったいま、何かが起こったというのは、ありえる事です。二年前、あの騒ぎで慌しかったので、調査不足という可能性もあるかと」
「なるほど───」
 ルーファウスは一度目を閉じ、そして次に開けたとき、その青は決意に満ちていた。
「いまから大空洞の調査を最優先とする。セフィロスの残骸、影響、すべてを探索しろ」
「了解しました」
「はいっ!」
 ツォンは一礼して、イリーナは元気よく返事をして頭を下げた。背を向けて足早にふたりは部屋を出て行く──ツォンは、その場所から星痕症候群の原因、またあわよくば治療法が見つからないかと思っているのか、いつになく早足だった。
「イリーナ」
 そんなツォンの後を追う女性へ、ルーファウスは声をかける。
 振り向いたイリーナへ、悪戯っぽく笑った。
「あいつの事を、任せた」
 さきほどとはまったく意味の異なる命令に、イリーナは顔を綻ばせた。
「お任せください、社長!」



















 そして、彼らの戦いははじまる。









2006.1.26 FINAL FANTASY Z ツォン×ルーファウス









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